ソーカル事件
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ソーカル事件(ソーカルじけん)とは、ニューヨーク大学物理学教授(専門は統計力学、場の量子論)だったアラン・ソーカル(Alan Sokal、1955年-)が起こした事件。数学・科学用語を権威付けとして出鱈目に使用した人文評論家を批判するために、同じように、科学用語と数式をちりばめた疑似哲学論文を執筆し、これを著名な評論誌に送ったところ、見事に掲載された事件。掲載と同時に出鱈目な疑似論文であったことを発表し、フランス現代思想系の人文批評への批判の一翼となった。
事件の経過 [編集]
1994年、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカルは、当時最も人気のあった人文学系の評論雑誌の一つ『ソーシャル・テキスト』誌に、『境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて』(Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity)と題した疑似論文を投稿した。この疑似論文は、ポストモダンの哲学者や社会学者達の言葉を引用してその内容を賞賛しつつ、それらと数学や理論物理学を関係付けたものを装っていたが、実際は意図的に出鱈目を並べただけの意味の無いものであった。ソーカルの投稿の意図は、この疑似論文がポストモダン派の研究者らによる査読によって出鱈目であることを見抜かれるかどうかを試すことにあった。疑似論文は1995年に受諾され、1996年にソーシャル・テキスト誌にそのまま、しかもポストモダン哲学批判への反論という形で掲載された[1]。これは査読と呼ぶのに十分な作業が行われていないことの証左と考えられ、同誌の編集者は、後にこの件によりイグノーベル賞を受賞している。
「疑似論文」に用いた数学らしき記号の羅列は、数学者でなくとも自然科学の高等教育を受けた者ならいいかげんである事がすぐに見抜けるお粗末なものだったが、それらは著名な思想家たちが著作として発表しているものをそっくりそのまま引用したものだった。この「疑似論文」は放射性物質のラドンと数学者のヨハン・ラドンを混用するなど、少し調べると嘘であることがすぐ分かるフィクションで構成されている。
その後、1997年、ソーカルは数理物理学者ジャン・ブリクモンとともに『「知」の欺瞞』(Impostures Intellectuelles、「知的詐欺」) [2]を著し、ポストモダニストを中心に、哲学者、社会学者、フェミニズム信奉者(新しい用法でのフェミニスト)らの自然科学用語のいいかげんな使い方に対する具体的な批判を展開した。
この本でソーカル達はジャック・ラカン、ジュリア・クリステヴァ、リュス・イリガライ、ブルーノ・ラトゥール、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ポール・ヴィリリオといった著名人を批判した。 彼らの多くはフランスのポスト・モダニストであるが、これはポスト・モダニストのみが科学知識を乱用している事を意味しない。 ソーカルによれば、ソーカルにできるのはポスト・モダニストの批判だけだったので彼らを批判したのである。他の分野も同様に批判して欲しいという依頼を、その分野の周辺や若手の評論家達から受けることがあるが、『これは我々(=ソーカルとブリクモン)の手には余る』行為であった。
ソーカルのこのような一連の行動に対し、いわゆるフランス現代思想として分類される思想家の多くは「悪意ある悪戯」「学者の最低限の倫理規範を踏みにじった」などと反発した。しかし、ソーカルの真意は思想家が数学や物理学の用語をその意味を理解しないまま遊戯に興じるように使用していることへの批判だった、と後にコメントしている。
なお、ポストモダン・ポスト構造主義の思想家であっても、ジャック・デリダやミシェル・フーコーは、自然科学用語は殆ど使用していないので、ソーカル事件においては直接批判対象になっていない。しかしフーコーは史実の乱用でJ.G. メルキオールらから、デリダは言語の乱用でノーム・チョムスキーやウィラード・ヴァン・オーマン・クワインから似たような批判を受けている。
内容と影響 [編集]
ソーカルに批判された衒学者たちの科学的なナンセンスぶりは『単なる「誤り」として見過ごすことができるような代物ではな』[3]く、『事実や論理に対する軽蔑、といわないまでもひどい無関心がはっきりとあらわれている』[4]ものだった。 ソーカルの指摘するように、『化学や生物学にすら顔を出さない深遠な数学的概念が思想や文学に奇跡的にも関係する、というような話は疑ってかかるべき』なのは当然である。
ソーカルによれば、(ポストモダンの著作で)「最もよく見られるのは、用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な(あるいは疑似科学的な)用語を使って見せる」行為であり[5]、ポストモダニスト達は「人文科学のあいまいな言説に数学的な装いを混入し、作品の一節に「科学的」な雰囲気を醸し出す絶望的な努力」をしているのだった[6]。
しかし、ソーカルの批判の対象となった批評家の支持者達は、ソーカルの批判に真剣に取り組もうとせず、「哲学を分かっていない」といったコメントを発する程度のことしかしないなど、全く反論にならない感情的な反発しかしなかった[7]こともあり、彼らに関して言えば出鱈目というレッテルを払拭できないのが現状である。
実際のところソーカルは、別に「ポストモダン哲学」自身を批判したいわけではないと『「知」の欺瞞』ではっきり断っている。 ソーカルが批判したのは、権威づけだけの為に使われている「科学的」説明であり、科学用語を無意味に散りばめて読者を煙に巻く評論家達の欺瞞であった。
ソーカル等の暴露に対し、「ポストモダンにおける科学用語の使用は単なる比喩である」という再反論もあるだろうが、 ポストモダニストの中には比喩以外の文脈で科学用語を乱用しているものもいた。 たとえばラカンは神経症がトポロジーと関係するという自身のフィクションについて『これはアナロジーではない』とはっきり発言している[8]し、 ラトゥールも経済と物理における特権性に関する自身のフィクションについて『隠喩的なものでなく、文字通り同じ』[9]と隠喩でない旨を強調しているが、ソーカルとブリクモンはその著書『「知」の欺瞞』の中でこれらのフィクションにおける「科学」がいかにデタラメかを暴露している。 またクリステヴァ[10]は一方で詩の言語は「(数学の)集合論に依拠して理論化しうるような形式的体系」であると主張しているのに、脚注では「メタファーとしてでしかない」と述べている。[11]
なお『「知」の欺瞞』によれば、彼らは比喩や詩的表現そのものを批判したわけではない。 ソーカル等の批判はポストモダニストが簡単な事を難しく言う為に比喩を使っている [12]事にある。 彼らがいうように、たとえば我々が『場の量子論についての非常に専門的な概念をデリダの文学理論でのアポリアの概念にたとえて説明したら』[13]失笑を買うはずなのである。
またソーカルは人文科学を軽視していたわけではなく、むしろ重視していたからこのような批判を行ったのだと述べている。 ソーカルの言によれば、これら科学用語の無意味な乱用で本当に被害を受けるのは自然科学ではなく、こうしたナンセンスなフィクションに不毛な時間を費す人文科学なのである。
なお、ソーカルの『「知」の欺瞞』は認識論における認識的相対主義も批判の対象にしている。ただし、この分野に関しては、「素朴実在論」「クーン以前」などの批判も多い。例として、ソーカルによると、対象の認識が難しくても、対象の存在そのものは客観的であると言う。その一例として「犯罪捜査」をあげ、犯罪があったことの確証があれば、どこかに犯人がいるのだから、犯人を見つけねばならないことは明らかである、と主張する。だが、必ずしも、すべてが当てはまるわけではない。例えば前例では、何をもって犯罪とみなすのかがすでに「前提」とされており、捜査について共通の了解があるということを暗黙においている。だが、そもそもの犯罪の定義に共通の了解がない場合、ソーカルたちの「実在論」では論証が難しい[14]。これでは、クワインやクーンよりも議論が後退してしまう。
(以上『』部分で書名でないものは『「知」の欺瞞』より引用。「」部分は『「知」の欺瞞』に書かれた意見の要約)。
主張 [編集]
ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞』の中で、衒学的な評論家が科学用語を無意味に使う事に対して以下の趣旨の事を述べている。
- 私はたしかに自然科学の専門家だが、そのことは批判の正しさには不必要である。自然科学者でなくとも、正しい批判は可能である。言語学者のチョムスキーもいっているように、中身の濃い分野ほど肩書きより内容に興味を持ち、中身の薄い分野ほど内容より肩書きに興味を持つものである。
イグノーベル賞 [編集]
1996年、「ソーシャル・テキスト」誌の編集長はソーカル事件の件に関してイグノーベル文学賞を受賞した。 「著者でさえ意味がわからず、しかも無意味と認める「論文」を掲載した」[15]のが受賞理由である。 受賞に際しての「ソーシャル・テキスト」誌の編集長のコメントは「ソーカルの論文を掲載した事を、心の底から後悔しています」[16]であった。 編集長はイグノーベル賞の授賞式に出席しなかったが、ソーカルは「祝福のメッセージを寄せ、そのメッセージは授賞式で読み上げられた」[17]。
参考文献 [編集]
ソーカル自身の文書:
- ソーシャル・テキストに載った疑似論文の原文:Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity. Social Text, #46/47 (spring/summer 1996), pp.217-252
- 上記の疑似論文がデタラメである事を暴露した告知:A Physicist Experiments with Cultural Studies. (文化研究に対する物理学者の実験). Lingggua Franca, May/June 1996, pp.62-64.
- 暴露後、事件を起こした動機について再びソーシャル・テキストに投稿したがrejectされた論文:Transgressing the Boundaries: An Afterword。[18]
- その後の反応を踏まえた上での論文: What the Social Text Affair Does and Does Not Prove. A House Built on Sand: Exposing Postmodernist Myths about Science, edited by Noretta Koertge (Oxford University Press, 1997)
- その日本語訳:「ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと」
- 『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』。アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン。 田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳。岩波書店、2000年 ISBN 978-4000056786
なお、ソーカル自身のページには様々な文献やリンクがある。
その他:
- 『もっと!イグ・ノーベル賞』。マーク・エイブラハムズ。ランダムハウス講談社。(「ソーシャル・テキスト」編集長のイグノーベル賞受賞についての記述あり)。
脚注及び参照 [編集]
- ^疑似論文の原文: Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity, Social Text, #46/47 (spring/summer 1996), pp. 217-252
- ^ アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』田崎晴明、大野克嗣、堀茂樹訳 岩波書店、2000年 ISBN 978-4000056786
- ^ 『「知」の欺瞞』p9
- ^ 『「知」の欺瞞』p9
- ^ 『「知」の欺瞞』6ページ
- ^ 『「知」の欺瞞』18ページ
- ^小池隆太氏は『「知」の欺瞞』を読んだのか?
- ^ 『「知」の欺瞞』p27より重引
- ^ 『「知」の欺瞞』p172より重引
- ^ 『「知」の欺瞞』執筆の20年以上前にクリステヴァは数学的乱用を止めているが、それでもソーカル達が彼女を批判したのは「彼女の初期の作品がある種の知性のあり方の典型的な症例を示している」と考えたからである。(『「知」の欺瞞』p11より)
- ^ 『「知」の欺瞞』p54より重引
- ^ 『「知」の欺瞞』p14。正確な引用は『メタファーは馴染みのない概念を馴染深い概念と関連させる事で説明するために使うものであって、決して逆の状況では使わない』
- ^ 『「知」の欺瞞』p14
- ^塩川伸明「読書ノート」
- ^ 『もっと!イグ・ノーベル賞』。マーク・エイブラハムズ。ランダムハウス講談社。p275
- ^ 『もっと!イグ・ノーベル賞』。p275
- ^ 『もっと!イグ・ノーベル賞』。p278
- ^ その後 Dissent 43(4), pp. 93-99 (Fall 1996)に載り、少し変えた版が「Philosophy and Literature 20(2), pp.338-346 (October 1996).」にも載った。
関連項目 [編集]
- フランス現代思想
- ポストモダン
- ポスト構造主義
- ジル・ドゥルーズ
- ジャン・ボードリヤール
- ジャック・ラカン
- フェリックス・ガタリ
- 浅田彰
- 柄谷行人
- 北田暁大
- 黒木玄
- 田崎晴明
- 山形浩生
- 中沢新一
- 蓮實重彦
- 東浩紀
- ミシェル・ウエルベック( 『 素粒子 』 )
- ボグダノフ事件 - ソーカル事件と対比される事の多い理論物理学での論争。