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2025/04/28 01:15 |
ソーカル事件

ソーカル事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

ソーカル事件(ソーカルじけん)とは、ニューヨーク大学物理学教授(専門は統計力学場の量子論)だったアラン・ソーカル(Alan Sokal、1955年-)が起こした事件。数学・科学用語を権威付けとして出鱈目に使用した人文評論家を批判するために、同じように、科学用語と数式をちりばめた疑似哲学論文を執筆し、これを著名な評論誌に送ったところ、見事に掲載された事件。掲載と同時に出鱈目な疑似論文であったことを発表し、フランス現代思想系の人文批評への批判の一翼となった。

事件の経過 [編集]

1994年、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカルは、当時最も人気のあった人文学系の評論雑誌の一つ『ソーシャル・テキスト』誌に、『境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて』(Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity)と題した疑似論文を投稿した。この疑似論文は、ポストモダン哲学者社会学者達の言葉を引用してその内容を賞賛しつつ、それらと数学理論物理学を関係付けたものを装っていたが、実際は意図的に出鱈目を並べただけの意味の無いものであった。ソーカルの投稿の意図は、この疑似論文がポストモダン派の研究者らによる査読によって出鱈目であることを見抜かれるかどうかを試すことにあった。疑似論文は1995年に受諾され、1996年にソーシャル・テキスト誌にそのまま、しかもポストモダン哲学批判への反論という形で掲載された[1]。これは査読と呼ぶのに十分な作業が行われていないことの証左と考えられ、同誌の編集者は、後にこの件によりイグノーベル賞を受賞している。

「疑似論文」に用いた数学らしき記号の羅列は、数学者でなくとも自然科学高等教育を受けた者ならいいかげんである事がすぐに見抜けるお粗末なものだったが、それらは著名な思想家たちが著作として発表しているものをそっくりそのまま引用したものだった。この「疑似論文」は放射性物質のラドンと数学者のヨハン・ラドンを混用するなど、少し調べると嘘であることがすぐ分かるフィクションで構成されている。

その後、1997年、ソーカルは数理物理学者ジャン・ブリクモンとともに『「知」の欺瞞』(Impostures Intellectuelles、「知的詐欺」) [2]を著し、ポストモダニストを中心に、哲学者、社会学者、フェミニズム信奉者(新しい用法でのフェミニスト)らの自然科学用語のいいかげんな使い方に対する具体的な批判を展開した。

この本でソーカル達はジャック・ラカンジュリア・クリステヴァリュス・イリガライブルーノ・ラトゥールジャン・ボードリヤールジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリポール・ヴィリリオといった著名人を批判した。 彼らの多くはフランスのポスト・モダニストであるが、これはポスト・モダニストのみが科学知識を乱用している事を意味しない。 ソーカルによれば、ソーカルにできるのはポスト・モダニストの批判だけだったので彼らを批判したのである。他の分野も同様に批判して欲しいという依頼を、その分野の周辺や若手の評論家達から受けることがあるが、『これは我々(=ソーカルとブリクモン)の手には余る』行為であった。

ソーカルのこのような一連の行動に対し、いわゆるフランス現代思想として分類される思想家の多くは「悪意ある悪戯」「学者の最低限の倫理規範を踏みにじった」などと反発した。しかし、ソーカルの真意は思想家が数学や物理学の用語をその意味を理解しないまま遊戯に興じるように使用していることへの批判だった、と後にコメントしている。

なお、ポストモダン・ポスト構造主義の思想家であっても、ジャック・デリダミシェル・フーコーは、自然科学用語は殆ど使用していないので、ソーカル事件においては直接批判対象になっていない。しかしフーコーは史実の乱用でJ.G. メルキオールらから、デリダは言語の乱用でノーム・チョムスキーウィラード・ヴァン・オーマン・クワインから似たような批判を受けている。

内容と影響 [編集]

ソーカルに批判された衒学者たちの科学的なナンセンスぶりは『単なる「誤り」として見過ごすことができるような代物ではな』[3]く、『事実や論理に対する軽蔑、といわないまでもひどい無関心がはっきりとあらわれている』[4]ものだった。 ソーカルの指摘するように、『化学や生物学にすら顔を出さない深遠な数学的概念が思想や文学に奇跡的にも関係する、というような話は疑ってかかるべき』なのは当然である。

ソーカルによれば、(ポストモダンの著作で)「最もよく見られるのは、用語の本当の意味をろくに気にせず、科学的な(あるいは疑似科学的な)用語を使って見せる」行為であり[5]、ポストモダニスト達は「人文科学のあいまいな言説に数学的な装いを混入し、作品の一節に「科学的」な雰囲気を醸し出す絶望的な努力」をしているのだった[6]

しかし、ソーカルの批判の対象となった批評家の支持者達は、ソーカルの批判に真剣に取り組もうとせず、「哲学を分かっていない」といったコメントを発する程度のことしかしないなど、全く反論にならない感情的な反発しかしなかった[7]こともあり、彼らに関して言えば出鱈目というレッテルを払拭できないのが現状である。

実際のところソーカルは、別に「ポストモダン哲学」自身を批判したいわけではないと『「知」の欺瞞』ではっきり断っている。 ソーカルが批判したのは、権威づけだけの為に使われている「科学的」説明であり、科学用語を無意味に散りばめて読者を煙に巻く評論家達の欺瞞であった。

ソーカル等の暴露に対し、「ポストモダンにおける科学用語の使用は単なる比喩である」という再反論もあるだろうが、 ポストモダニストの中には比喩以外の文脈で科学用語を乱用しているものもいた。 たとえばラカンは神経症がトポロジーと関係するという自身のフィクションについて『これはアナロジーではない』とはっきり発言している[8]し、 ラトゥールも経済と物理における特権性に関する自身のフィクションについて『隠喩的なものでなく、文字通り同じ』[9]と隠喩でない旨を強調しているが、ソーカルとブリクモンはその著書『「知」の欺瞞』の中でこれらのフィクションにおける「科学」がいかにデタラメかを暴露している。 またクリステヴァ[10]は一方で詩の言語は「(数学の)集合論に依拠して理論化しうるような形式的体系」であると主張しているのに、脚注では「メタファーとしてでしかない」と述べている。[11]

なお『「知」の欺瞞』によれば、彼らは比喩や詩的表現そのものを批判したわけではない。 ソーカル等の批判はポストモダニストが簡単な事を難しく言う為に比喩を使っている [12]事にある。 彼らがいうように、たとえば我々が『場の量子論についての非常に専門的な概念をデリダの文学理論でのアポリアの概念にたとえて説明したら』[13]失笑を買うはずなのである。

またソーカルは人文科学を軽視していたわけではなく、むしろ重視していたからこのような批判を行ったのだと述べている。 ソーカルの言によれば、これら科学用語の無意味な乱用で本当に被害を受けるのは自然科学ではなく、こうしたナンセンスなフィクションに不毛な時間を費す人文科学なのである。

なお、ソーカルの『「知」の欺瞞』は認識論における認識的相対主義も批判の対象にしている。ただし、この分野に関しては、「素朴実在論」「クーン以前」などの批判も多い。例として、ソーカルによると、対象の認識が難しくても、対象の存在そのものは客観的であると言う。その一例として「犯罪捜査」をあげ、犯罪があったことの確証があれば、どこかに犯人がいるのだから、犯人を見つけねばならないことは明らかである、と主張する。だが、必ずしも、すべてが当てはまるわけではない。例えば前例では、何をもって犯罪とみなすのかがすでに「前提」とされており、捜査について共通の了解があるということを暗黙においている。だが、そもそもの犯罪の定義に共通の了解がない場合、ソーカルたちの「実在論」では論証が難しい[14]。これでは、クワインやクーンよりも議論が後退してしまう。

(以上『』部分で書名でないものは『「知」の欺瞞』より引用。「」部分は『「知」の欺瞞』に書かれた意見の要約)。

主張 [編集]

ソーカルとブリクモンは『「知」の欺瞞』の中で、衒学的な評論家が科学用語を無意味に使う事に対して以下の趣旨の事を述べている。

  • 私はたしかに自然科学の専門家だが、そのことは批判の正しさには不必要である。自然科学者でなくとも、正しい批判は可能である。言語学者のチョムスキーもいっているように、中身の濃い分野ほど肩書きより内容に興味を持ち、中身の薄い分野ほど内容より肩書きに興味を持つものである。


イグノーベル賞 [編集]

1996年、「ソーシャル・テキスト」誌の編集長はソーカル事件の件に関してイグノーベル文学賞を受賞した。 「著者でさえ意味がわからず、しかも無意味と認める「論文」を掲載した」[15]のが受賞理由である。 受賞に際しての「ソーシャル・テキスト」誌の編集長のコメントは「ソーカルの論文を掲載した事を、心の底から後悔しています」[16]であった。 編集長はイグノーベル賞の授賞式に出席しなかったが、ソーカルは「祝福のメッセージを寄せ、そのメッセージは授賞式で読み上げられた」[17]

参考文献 [編集]

ソーカル自身の文書:

なお、ソーカル自身のページには様々な文献やリンクがある。

その他:

  • 『もっと!イグ・ノーベル賞』。マーク・エイブラハムズ。ランダムハウス講談社。(「ソーシャル・テキスト」編集長のイグノーベル賞受賞についての記述あり)。

脚注及び参照 [編集]

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  1. ^疑似論文の原文: Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity, Social Text, #46/47 (spring/summer 1996), pp. 217-252
  2. ^ アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン 『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』田崎晴明大野克嗣堀茂樹岩波書店、2000年 ISBN 978-4000056786
  3. ^ 『「知」の欺瞞』p9
  4. ^ 『「知」の欺瞞』p9
  5. ^ 『「知」の欺瞞』6ページ
  6. ^ 『「知」の欺瞞』18ページ
  7. ^小池隆太氏は『「知」の欺瞞』を読んだのか?
  8. ^ 『「知」の欺瞞』p27より重引
  9. ^ 『「知」の欺瞞』p172より重引
  10. ^ 『「知」の欺瞞』執筆の20年以上前にクリステヴァは数学的乱用を止めているが、それでもソーカル達が彼女を批判したのは「彼女の初期の作品がある種の知性のあり方の典型的な症例を示している」と考えたからである。(『「知」の欺瞞』p11より)
  11. ^ 『「知」の欺瞞』p54より重引
  12. ^ 『「知」の欺瞞』p14。正確な引用は『メタファーは馴染みのない概念を馴染深い概念と関連させる事で説明するために使うものであって、決して逆の状況では使わない』
  13. ^ 『「知」の欺瞞』p14
  14. ^塩川伸明「読書ノート」
  15. ^ 『もっと!イグ・ノーベル賞』。マーク・エイブラハムズ。ランダムハウス講談社。p275
  16. ^ 『もっと!イグ・ノーベル賞』。p275
  17. ^ 『もっと!イグ・ノーベル賞』。p278
  18. ^ その後 Dissent 43(4), pp. 93-99 (Fall 1996)に載り、少し変えた版が「Philosophy and Literature 20(2), pp.338-346 (October 1996).」にも載った。

関連項目 [編集]

外部リンク [編集]

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2009/05/17 16:26 | 未選択
文系と理系

文系と理系

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

文系と理系(ぶんけいとりけい)とは、学問学習教育研究などを含む)に対しての日本などにおける大まかな分類方法の1つのことである。文系とは、主に人間の活動を研究の対象とする学問の系統とされており、理系とは、主に自然界を研究の対象とする学問の系統とされている。

大学教育の準備教育としての文系と理系 [編集]

日本においては、第2次・高等学校令(大正7年勅令第389号)の第8条に「高等学校高等科を分ちて文科及理科とす」(原文は片仮名)という規定があった。明治中期から第二次世界大戦降伏前は、旧制高等学校は、旧制大学で教育を受けるための準備教育を行う場としての位置づけが大きかった。高等学校の高等科においては、学修する外国語英語およびドイツ語が大半)によって、「文科甲類」「文科乙類」「理科甲類」「理科乙類」などに分け、「文科」「理科」のどちらで学んだのか、学んだ外国語は何であったかによって、旧制大学で学ぶ専攻分野を大きく左右した。

近代の日本において、大学教育に対する準備教育の課程を「文科」と「理科」に区分したことは、現代における文系と理系の区分に事実上引き継がれている。旧制高等学校の区分けを受けて、現代における文系を文科系(ぶんかけい)と理系を理科系(りかけい)と呼ぶこともある。「系」の語が付与されているのは、「文科」「理科」という学科組織に基づく分類によっていないからである。(なお、現代においても「高等学校」および「中等教育学校の後期課程」に「理数科」という学科があり、この場合、「理数科」を卒業した場合は、「理数科卒業」となる。ただし、文系の学部・学科・課程への入学制限は、一切ない。)

現代においても研究の最初の入り口である大学において、文系的と考えられている学問を専攻する学部・学科・課程と、または理系的と考えられている学問を専攻する学部・学科・課程とで、区分を異にした募集を行い、入学試験において異なった科目を課すことが多い。例えば、東京大学(旧制・第一高等学校および旧制・東京帝国大学の後身)においては、(新)入学者の募集区分が「文科一類」「文科二類」「文科三類」「理科一類」「理科二類」「理科三類」となっていて、すべてに「文科」と「理科」の語がついている。このように「文科」「理科」を冠して(新)入学者を募集する例は少なくなっているものの、21世紀を迎えても、日本国内の大学には、「文系の(新)入学者選抜」「理系の(新)入学者選抜」が少なからず存在している。(なお、一部の大学の学部・学科・課程においては、文系・理系の枠を外した総合的な入学者選抜を行い始めている。)

このような事情もあって、「高等学校」および「中等教育学校の後期課程」などにおいて、大学進学を希望する生徒が科目を履修する際には、大学の入学者選抜に対応するために、生徒の希望学部・学科・課程に応じて、生徒の履修科目が文系的・理系的になるように、教員や保護者が指導することが慣習化し、学習塾もこれを受けた事業を展開している。

大学教育における文系と理系 [編集]

「高等学校」や「中等教育学校の後期課程」などにおける指導の延長から、便宜的に文系(ぶんけい)と理系(りけい)のどちらかに大学教育の内容を分ける習慣がある。二つを合わせて文理(ぶんり)と呼ばれることもある。文系とは主に、人間の行動や思考が何らかの形で関わった現象についての学問とされ、文献などの個別対象や思想などの概念対象を解釈する人文科学と、社会現象や制度を歴史的、思想的もしくは実証的に解釈する社会科学などが当てはめられる。理系とは人間そのものと人間を取り巻く自然全般を、当為的かつ実証的に研究する学問とされ、自然科学などが当てはめられる。

しかしながら文系と理系は、研究上の視点から見れば、歴史的な事情によって形成された便宜的な分類である。実際に事物を深く学修・研究しようとすると、文系と理系という二者択一の区分法に、限界が見て取られることは多い。西洋においては、学問分野は、伝統的に自然科学・人文科学・社会科学の3つに分類されており、また、この3分類以外の分類も多く見られる。

日本では、文系・理系という見方が高等学校の段階で厳密に区別されてしまうことが多いため、学部ごとにある特定分野の知識について社会化された学生が集まってしまい、大学受験以降にて広く学問や社会を見渡すような視点を促す教育・研究活動につなげにくいといった批判がある。特に私立大学の入学試験においては科目数の少なさから、(経済学部などの例外を除けば)理系科目と文系科目が完全に切り離されることも多く、いわゆる学力低下問題と絡んで私立大学の入試科目が批判の対象となることも少なくない。現在、文系の方が理系よりも学生の数が多い。数学・理科が苦手であるという消極的な理由から文系に進学する者が多いこともその一因と考えられる。

また技術系の最高資格である技術士一次試験での共通科目においての受験免除の条件の一つとして理系の大学卒が挙げられていたり、過去には太平洋戦争末期に行われた学徒出陣において、理系学生が技術要員として徴兵猶予が継続された一方、文科系学生は士官候補生として動員されるなどの事例も理系学生と文系学生とで持つ知識に偏りや隔たりが生じている証左と言えよう。

理系と文系を区分する規準 [編集]

学問間のつながり [編集]

一般に、理系の学問は数学との親和性が高いため、「理数系」と呼ばれる場合もある。しかし理系に分類される学問の中にも数学的知識を必要としない分野も存在するし、また文系に属する学問の中にも数学的考察を重視している分野(経済学など)は、数学的知識を得ていなければならない。また、考古学放射性炭素年代測定など理化学的検査の必要が年々増加しているため、やはり数学や理科が重要視される傾向にある[1]。。また心理学では脳機能科学神経科学との関連が密であり、福祉では医療系の知識も必要となる。

更に、理系に属する精神医学は文系に属する心理学と深く関わっており、理系に属する筈の農学には農業経済学産業経営学など、文系とされる学問で扱われる内容が重視される学科が存在する(因みに農学部の農業経済学科生徒は太平洋戦争中、「文系」と判断されて学徒出陣の際、文科系の諸学問の学生らと同様に徴兵猶予を停止され徴兵されている。)し、造園学はランドスケープデザイン学、環境デザイン学として、また建築学/建築学科は、それらを学ぶことができる学科自体が文理双方で多岐にわたって設置されている。

上記に挙げた例だけでも、単に数学や理科との親和性だけが文理を隔てるものではないことが容易に分かる。

「科学」の捉え方 [編集]

しばしば文理論を唱える意見の中には、「理系分野は科学で、文系分野は非科学」であると主張し、同時にそれが文理を分ける区分であるとする物も散見される。

だがこの議論は一般に想像される以上に複雑な議論であり、そもそも『科学』とは何を持って『科学』と呼べるのかという言葉の定義の問題にまで遡らなければ根本的な解決は難しい。『科学』の定義を巡っては、科学哲学の分野に置いて長年に亘っての議論が交わされており(詳しい経緯は科学科学的手法を参照)、定義の内容によっては人文・社会科学のみならず自然科学のほとんどが厳密な意味での『科学』の定義から外れてしまう、科学を定義する上において非常に重要である「科学的手法」として現状挙げられている方法論への是非など、多くの問題が山積しており未だに統一した見解が出されたとは言い難い状態である。故に実際に行われている諸学問の研究活動では不毛な議論と化している感のある「線引き問題」を嫌って、こうした問題を棚上げしている場合も少なくない。

学際主義 [編集]

万学の基礎たる哲学では、数学・物理学・化学・生物学などが古くより主要な研究対象とされており、それらの学問から哲学に転じた人間も少なくない。こうしたひとつの学問領域に限定されない考え方は、リベラル・アーツ的な視点として古来より存在している。現在ではそれを(文系と理系の双方の考え方を同時に扱おうとする態度を明確にしている場合は特に)文理融合と呼ぶ。また、そのような態度が要求される分野を文系・理系に対する概念として学際系と呼称することも多い。

文理の区別は、学問が中心的に扱う対象や、具体的な研究方法によって決まるという考え方もある。

また理系学問の内、医学歯学薬学などの医療系分野を除いて理工系(りこうけい)と称する学者もおり、彼らは工学的知識と文系諸学問の思想の双方が扱われる金融工学などの分野を文工融合(ぶんこうゆうごう)と呼ぶ事がある。

研究上の学位(修士・博士の学位) [編集]

日本では理系のほうが文系に比べて修士・博士課程に進学する割合が高く、博士号取得者の8割が理系である。これは卒業後の就職・採用事情と大きく関係しており、理科系は研究室の教員の紹介が中心となるのに対して文科系には研究職の募集が極端に少なく、経理や営業現場でのOJTを重視する傾向にあるためと見られる。文系とされる博士号取得者は欧米には多数存在する一方で日本の付与条件や取得状況が極端に厳しく、これが海外留学生の受け入れにおいてしばしば問題とされる[2]

文系内・理系内の学問のさらなる区分にともなう事象 [編集]

同一学問系の細分化 [編集]

近代以後、学問各分野における専門知識の増大により、文科系・理科系や自然科学・社会科学・人文科学などの異なる分類の学問間のみならず、同じ分類にされている学問内においても研究の相互理解が困難になりつつある。このような現状は、最近のことではなく20世紀当初からあったとC. P. スノーは “The two cultures and a second look” の中で述べている。

また前述のように学問分野の隣接・融合(学際化)も起こっており、言うなれば「○○系寄りの□□系」、「□□系寄りの○○系」といった分野も存在するため、これが更なる同一学問系内における乖離を生み出している。

さらに次項で説明するように、同一学問系内でも論理を基底に据えるか経験を基底に据えるかによって立場が大きく異なる場合もある。

形式科学と経験科学 [編集]

数学物理学はそれぞれ同じ理系に分類されるのが一般的認識だが、前者は公準と論理によって構築される形式科学 (formal science) に属するのに対し、後者は自然現象の観察という経験を通して構築される経験科学 (empirical science) に属する。数学は算術や天文学に端を発する経験科学という印象を持たれがちだが、実際は自然界に存在し得ないものも表現しうる高度に形而上的な体系となっている。一方、物理学は数学と密接な関係にはあるものの、あくまでも自然界に存在するもの、経験に重きが置かれ、事象が説明できれば数学的に厳密な証明を要さない場合も少なくない。つまり両者は密接な関係にありながら、立場や観点、方法論は大きく異なる。

同様に文系における哲学・論理学と社会科学・言語学においても、一方が論理と証明を基底とし、他方が経験と実証を基底とする点においては数学と物理学に似た関係性が見られる。

文系と理系をめぐる観念的な印象 [編集]

生徒や学生の気質について「理系は理詰めで厳密さを求めるが社会性には乏しく、文系はその逆」というイメージを持つ者が散見される。同様の類型化に「理学や哲学等の基礎学系は理論や手続き重視で理屈っぽく、工学や医学や社会科学等の応用学系は結果重視で必ずしも厳密さを求めない」であるとか、「経済学専攻の人間は社会性があってつきあいやすいが、理工系は堅苦しい人間の集まり」というようなものがある。

しかし、この手のステレオタイプなイメージのほとんどがそうであるように、上記の論も統計にもとづいた科学的根拠が提示された事例がなく、また「理詰め」「理屈っぽい」「社交的」などという曖昧で連続性の誤謬をもつ表現による非論理的な物が多く、実相を表しているとは到底言い難い。結局の所、気質や性格は個人的差異による大きな幅があり、画一的な見方が当て嵌まることは少ない。

一方で諸学問の内、実験を重視する学問はそうでない学問に比べて必然的に拘束時間が長く、結果プライベートな目的に用いることができる時間が少ないという事実も確かに存在し、それが本人の対人関係に影響を与えることがある側面も無視はできない。しかし数物系など計算や数式の解析が重視されるなど全ての理系学問が実験を主体としている訳ではないし、逆に文系でもフィールドワーク社会調査など必ずしも拘束時間が短いとは言い切れないことを留意する必要がある。

なお、理系の生涯賃金の平均が文系より5000万円近く低いとする調査もあり[3]、これが理系離れの原因だと主張する言説も往々にして見受けられる。ただ、その調査結果についても製造業などの第二次産業とサービス業・金融業などの第三次産業の間の収入間格差の反映に過ぎないと言う見解もあるし、殊に両者の比較において文系は管理職のエリート・理系は現場の技術職と比較の仕方自体に問題がある面も否定できない。小学校高学年から思春期にかけて、男の子は算数(数学)・理科が、女の子は英語・国語が得意、あるいは好きだとするイメージがある。この傾向から大学進学時に女生徒で理系進学を志望すると「珍しい」と評されることがある[4][5]

政界における文系と理系 [編集]

日本の政党では自民党公明党に文系出身者が多く、民主党共産党社民党に理系出身者が多い。また、中国共産党の執行部は理系出身者で占められている[6]が、創始者達(毛沢東李大釗陳独秀ら)は社会科学系(文系)であった。

文系的と捉えられることが多い学問 [編集]

ただし、経済学言語学社会学心理学デザイン学には高度な数学的・統計学的解析を伴うものも多い。また、地理学地球科学と密接な関係を持ち、特に自然地理学地図学は理系の学問と位置づけられることも多い。

理系的と捉えられることが多い学問 [編集]

農学工学には経済学、拓殖学や地域研究経営学金融工学デザイン学、生物学医学には哲学倫理学情報学には社会学など、人文科学的・社会科学的な考えを要する分野もある。またそれぞれの分野の歴史学をも扱う(「○○学史」「○○史」と呼ばれる)。

脚注 [編集]

  1. ^ ただし、日本の考古学研究者には数学・理科の素養が乏しい者が多く、理系研究者からは「単に外部委託した分析結果を理解もせずに利用しているだけ」という批判も多い。
  2. ^ 第96回参議院文教委員会宮之原貞光
  3. ^大谷・松繁・梅崎「卒業生の所得とキャリアに関する学部間比較」
  4. ^ この傾向について第140回参議院労働委員会笹野貞子『女子学生の大学を受ける専攻は、だんだん社会科学系や理科系が多くなったとは言っても、まだまだ女性は文系、男性は理系という考え方で大学の専攻をいたします。』の発言がある。
  5. ^ 第168回衆議院青少年問題に関する特別委員会 布村幸彦(文部科学省大臣官房審議官)も同様の趣旨での発言あり。
  6. ^岩田勝雄新執行部体制下の中国の課題 I立命館大学、2003年5月。

2009/05/17 16:18 | 未選択
ジェントルマン

ジェントルマン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 


概説 [編集]

gentleはラテン語の"gentils"に由来する。"gentils"はもともと「同じゲンス(氏族:Gens)に属する」という意味であるが、そこから転じて特に高貴な血筋や名門一族といった意味合いで使われる。つまり"gentleman"とは「高貴な人物」といった意味合いである。イギリス近代におけるエリートであると同時に尊敬を集める存在であり、独自のコミュニティを背景に政治社会に大きな影響力をもった。このジェントルマン階級には上流階級である貴族、ジェントリ、および中流階級に分類される英国国教会聖職者、法廷弁護士、内科医、上級官吏、陸軍士官海軍士官、大貿易商、銀行家などが含まれる。これらの共通点は自己の利益の為に労働しない、あるいは社会の為に奉仕すると考えられていた事である。また、ジェントルマンとして必要な下地はパブリックスクールからオックスブリッジに至る教育課程にて培われると考えられていた。その為、十分な経済力を持った人物であっても、産業資本家やネイボッブ(インド成金)はジェントルマンと認められなかった。

ジェントルマン階級の形成 [編集]

貴族とジェントリの統合 [編集]

貴族とジェントリは両者とも16世紀前半には既にジェントルマンとして認識されており、上級と下級のジェントルマンという区分が為されていた[1]テューダー朝以前のジェントリは貴族の私的な封建家臣団を形成する事が多く、貴族とジェントリの間には大きな格差が存在したが[2]薔薇戦争による疲弊で貴族が勢力を大きく減じた事とテューダー朝期にジェントリ層が積極的に登用された事より、その差は確実に小さくなっていった。両者は生活スタイルや文化の点で近く、称号貴族院議席以外に特権の差も存在しなかったため、通婚が進み、単一の地主貴族層を形成した。

ジェントルマン的職業の受容と拡大 [編集]

本来、ジェントルマンは土地に立脚した不労所得者である。しかし、16世紀中頃には国教会聖職者、法律家、高級官僚、士官など一部の職業はジェントルマン的な職業と認められている。これらの職業は社会あるいは国王王国に奉仕するものと考えられたとともに、領地を相続する事のできない、地主の次男・三男が生きるために就いた職業でもある[3]。またこれらの職は人脈や経済力、大学での教育などが職を得る際に必要であった為、ジェントルマンと富裕な市民以外は就くことが難しかった[4]

新興中流階級の包摂 [編集]

イギリスにおける「貴族制」の最大の特徴は上層(貴族)への接近が閉ざされていたのに対し、領地を購入する事によって下層部(ジェントリ)となる途が開かれていた事にある。商業革命などの結果、経済活動が活発になり、中流階級の中から突出した富裕者が出るようになると、彼らは経済的な成功に加え社会的な名誉を欲する様になり、土地を購入する事でジェントルマンの仲間入りを果たそうとした。貿易商や銀行家などは本人は働かないというという点でジェントルマンに生活スタイルが近かった為、比較的容易にジェントルマンとして迎え入れられた[5]。その後、イギリス帝国の拡大とともに富裕な中流階級も増大するが、彼らも同様に領地購入、ジェントリ化という途を望む。他の西ヨーロッパ諸国で政治エリートとしての貴族が衰退していったが、勃興した中流階級上層部を体制内に取り込んだイギリスでは、ジェントルマンによる支配体制が20世紀まで温存される事となった[6]

教育による育成 [編集]

上層中流階級のジェントルマン化が進むにつれ、ジェントルマンと非ジェントルマンの境界条件も変化した。土地や不労所得者という要素は必要条件から、むしろある種の理想像といえる位置づけになり、ジェントルマンをジェントルマンたらしめる要素は教養と教育が決定的になる。ジェントルマンの美徳として教養を重視する立場は16世紀まで遡る事ができるが、これは15世紀末にイタリアから輸入された人文主義の影響もあり、ジェントリが武芸に秀で伝統的権威を持っていた貴族に対抗する上で教養が必要になった為である[7]

T.エリオットは『為政者の書』を著し、ギリシアローマ的な西洋古典教養を備え、地方行政を担う事のできる人物を理想のジェントルマンとして描いている。その後、中央集権化が進むにつれ、ジェントルマンは地方行政のみならず、中央の宮廷においても重視される様になるが、その様な情勢の変化に合わせて求められるジェントルマン像も変化した。1561年に翻訳されたカスティリオーネの『宮廷人』は古典教養に加え、音楽舞踏作法礼節など更に広い領域における知識と素養を求めている[8]

この様な「必須科目」は家庭教師から教わるのみならず、オックスフォードケンブリッジ両大学において習得された。両大学は中世以来、聖職者養成機関としての性格を強く残していたが、ヘンリー8世エリザベス1世によって、教会の勢力を削ぎ宮廷に人材を供給するべく古典研究を重視する方針へと転換がされた[9]。聖職者養成機関としての役割自体は残るが、オックスブリッジから宮廷というルートが確立された事によって、聖俗両方の上部構造が二つの大学出身者によって占められる事となり、エリート社会全体に広がるジェントルマンの共同体が形成された[10]。大学教育によるジェントルマンの選別という方法は新参者を共同体から排除する働きをした一方で、新参者本人はジェントルマンと認められなくとも、子や孫の代でのジェントルマン化に途を拓くものであった。特に、イギリス帝国の拡大に伴い、新規に中流階級出身のジェントルマンが増えた19世紀には、土地の取得に代わるジェントルマン化の方法として活用された。

金融サーヴィスへの移行 [編集]

地主貴族以外のジェントルマンが増加しても依然として土地はジェントルマンにとって重要な要素であり続けた。土地に立脚した生活がジェントルマンとしての理想であった事もあるが、ナポレオン戦争以後、穀物法によって穀物価格は高値で維持され、領地からの収益が温存されていた為でもある。19世紀半ばに穀物法が廃止されてもロシア、東欧における輸送手段の遅れから地主支配体制への直接的な打撃となることは無く[11]、農業技術の進歩とともにイギリス農業は「黄金期」と呼ばれる時期を迎える。しかしイギリス農業が空前の繁栄を遂げたこの時期にも、水面下では現実的な影響は無くとも穀物法廃止に不安を覚えたジェントルマンたちは少しずつ金融サーヴィスへ重心を移し始めていた。その後、続く農業生産の増加から穀物価格は低下を始め、農業分野での利益率の低下から、金融サーヴィスに新たな財源を求めるジェントルマンはますます増加した。これらの新たな富の源泉となった分野は「ジェントルマン資本主義」と呼ばれる。具体的にはシティを中心とした銀行・証券などの金融資本、公式・非公式を問わず帝国内での人・モノの移動を支える流通分野、および未だ危険の残る帝国内での経済活動の安全を担保する保険分野などである。これらはイギリス帝国の拡大に伴い発展し、19世紀末には土地に代わるジェントルマンの主要な財源となった。

脚注 [編集]

  1. ^ 村岡・川北、2003、p.114.
  2. ^ ブリッグズ、2004、p.146.
  3. ^ 村岡・川北、pp.117.
  4. ^ ケイン・ホプキンズ、1997、I巻p.19。またジェントルマン的職業、特に国教会聖職については指昭博「聖職者・ジェントルマン・プロフェッション」(『ジェントルマンであること』)に詳しい。
  5. ^ 村岡・川北、p.55.
  6. ^ 前掲書、p.115およびp.157.
  7. ^ 前掲書、p.115.
  8. ^ 前掲書、p.116.
  9. ^ 前掲書、p.117.
  10. ^ 前掲書、p.117.
  11. ^ 前掲書、p.149.

参考文献 [編集]

  • A.ブリッグズ 『イングランド社会史』 今井宏他訳、筑摩書房、2004年
  • 村岡健次、川北稔編著 『イギリス近代史 [改訂版] 』ミネルヴァ書房、2003年
  • 山本正編 『ジェントルマンであること』刀水書房、2000年
  • 大下尚一他 『西洋の歴史 近現代編 増補版』ミネルヴァ書房、1998年
  • P.J.ケイン、A.G.ホプキンズ『ジェントルマン資本主義の帝国I』名古屋大学出版会、1997年
  • P.J.ケイン、A.G.ホプキンズ『ジェントルマン資本主義の帝国II』名古屋大学出版会、1997年

2009/05/17 16:13 | 未選択

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